聖書のみことば
2022年8月
  8月7日 8月14日 8月21日 8月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

8月14日主日礼拝音声

 主イエスの名
2022年8月第2主日礼拝 8月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第9章38〜41節

<38節>ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」<39節>イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。<40節>わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。<41節>はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 ただいまマルコによる福音書9章38節から41節までをご一緒にお聞きしました。38節に「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました』」とあります。どこか唐突な言葉であるように感じられます。
 ヨハネは12弟子の中で一番歳が若かった弟子ですが、そのヨハネが、自分が行ったことを主イエスに報告しています。「先生の名を使って悪霊を追い出し癒しの業を行っている人に出会いました。その人は見知らぬ人でしたが、先生の名前を出して業を行っていたので、わたしたちに従って来るように言いました。ところがその人は来ようとしませんでした。それでわたしはその人に、『今後は主イエスの名を使って癒しをしないように』と注意しました」と、恐らくヨハネは、そういうことを主イエスに申し上げたものと思われます。
 ヨハネが急にこんなことを言い出したのは、もしかすると、この直前の箇所で主イエスが弟子たちを教えようとしておっしゃった言葉に触発されたからかもしれません。そこでは、主イエスの一行がカファルナウムの、恐らくペトロの家と思われる家に着いたところで、主イエスが弟子たちに「道すがら何を語り合っていたのか」とお尋ねになり、さらに幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、その子を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と教えておられました。ヨハネはこの主イエスの言葉に反応したのだろうと思います。「そう言えば、先生のお名前を出して癒しをしている人に会った。その人は確かに主イエスの名によって癒しの業をしていたようだった。その結果の癒しの具合がどうかはよく分からないけれど、その人がわたしたちの仲間でないことは分かったので、とにかく主イエスの名を出して癒しをするのなら、わたしたちと一緒に来たらどうだと誘った。けれども、その人はついて来ようとしなかった。主イエスの名を出しておきながら主イエスに従わないのはけしからんことと思ったので、二度とそのようなことを行ってはならないと申し渡した」と、ヨハネはそのように思って主イエスに報告したのだろうと思います。
 ヨハネは自分から話を切り出していますから、ヨハネとすれば、主イエスから褒めていただけると思って話したのでしょう。これはいかにも、弟子たちの中で最も若くて無邪気なヨハネらしい行動だと言えなくもありません。
 ヨハネは若いというだけではなくて、ある個性を持つ人です。兄はヤコブですが、ヤコブとヨハネの兄弟は、かつて主イエスから「ボアネルゲス」というあだ名を付けられたことがあります。マルコによる福音書では3章17節にその記事が出ていて、そこを読みますと、「ボアネルゲス」という言葉の意味は「雷の子ら」という意味だと説明されています。このあだ名から察すると、おそらく兄弟には気の短いところがあって、何かのきっかけがあるとすぐに破裂してしまうような、そういう癖を持つ人たちだったと思われます。ルカによる福音書9章51節から55節を読みますと、主イエスと弟子たちの訪問を歓迎してくれなかった村の人たちに対して、ヤコブとヨハネが「天から火を降らせて、この村を焼き払ったらどうでしょうか」と主イエスに提案をして、叱り飛ばされているという出来事が記されています。
 ヨハネは一番若い弟子でしたから、結果的には12弟子の中で最も終わりまで生き延びることになりました。そして歳を重ねていくうちに次第に思慮深く成長していったのですが、若い頃は非常に短気でした。今日の箇所でも、自分たちと一緒に主イエスに従おうとしなかった一人の見知らぬ人を偽物の弟子だと決めつけ、「もう二度と主イエスの名を使ってはいけない」と厳しく申し入れている、そんなところにヨハネのヨハネらしさが表れているような気がします。

 ところが、こういうヨハネの行動について、ある人は「ヨハネはここで何をしたのだろうか。ヨハネは主イエスの名前を使っているこの見知らぬ人に、伝道しようとしたのではないか」と言っています。虚をつかれるような説明ですが、しかし確かにそう言えなくもないと思うのです。「主イエスの名を使って癒しを行っていた人」は、ヨハネたちからすれば見知らぬ人物です。ヨハネは主イエスと生活を共にしていた12弟子の一人で、そういうヨハネが知らないのですから、この人は確かに、この時点では主イエスのそば近くにいた弟子ではない可能性が高いでしょう。けれども主イエスの名によって癒しをするくらいですから、主イエスに対して興味を持っていたに違いありません。ヨハネはその人に、「わたしたちと共に来るように。そして行動を共にするように」と言って招きました。つまりヨハネのしていることは何かというと、主イエスに興味があり関心を持ってはいるけれど、主イエスと共に生活するというところまでは踏ん切りがつかず躊躇している人に向かって、「どうぞ、あなたも主イエスの許にいらっしゃい。わたしたちと一緒に御言葉に励まされながら歩んでいきましょう」と招く、そういう行動をしているのです。その限りにおいて、確かにヨハネの行いは、「この人に伝道した」と言うこともできるだろうと思います。
 わたしたちも場合によっては、このヨハネとよく似たことをするのではないでしょうか。イエス・キリストやキリスト教に関心を持ちながらも、なかなか教会の扉を叩くというところまでは行かない知人に出会う時に、「ご一緒に礼拝に行きませんか」と声をかけることがあるかもしれないと思います。それは、ヨハネがここでやろうとしたこととそっくりなことなのです。
 ところで「主イエスの名を使って癒しを行っていた人」は、ヨハネから誘いを受けた時にその誘いを断り、主イエスの許に来ようとしませんでした。それでヨハネは、この人は偽物の弟子であると考えて、「今後一切主イエスの名を使って悪霊を追い出したり癒しをしたりしてはならない」ときつく申し渡しました。けれどもヨハネがこの人にきつく申し渡したぐらいで、この人がその後、主イエスの名を口にしなくなったかどうか、そこまではよく分かりません。ヨハネにしても、「主イエスの名による癒しをやめさせようとしました」と言っているだけで、「やめさせることに成功しました」と言っているわけではないのです。

 このヨハネの行動について、主イエスはどのようにお考えなのでしょうか。主イエスは、ヨハネがこの人の癒しの業を「やめさせようとした」ことについて、「やめさせてはならない」と言われます。39節40節に「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである』」とあります。ヨハネは自分が行ったことを進んで主イエスに報告し、当然主イエスから褒めていただけるだろうと思っていました。ところが主イエスは、ヨハネからすると意外なことを言われました。「やめさせてはならない」とは、ヨハネにとっては大変びっくりするような言葉だったことでしょう。

 ここでの主イエスの言葉を、わたしたちはどう考えたらよいでしょうか。
 ある種の人々は、「主イエスは寛容な方」と説明し、主イエスはここでヨハネの心の狭さを非難したのだと説明します。ヨハネは、主イエス・キリストの名を使って癒しの業を行っている人に向かって、「もしそういうことをするのであれば、わたしたちと同じ弟子の集団に属していなければならない。だからついて来るようにと言ったのに、ついて来なかった。ついて来ず、つまり弟子のグループに入らないなら、主イエスの名を使ってはならない」と申し渡したのですが、それはいかにも、「主イエス・キリストの名」が弟子たちのグループだけが使って良い、専売特許であるような考え方で、そこがヨハネの心の狭さだと説明するのです。
 そしてそういう説明にはさらに、「これは弟子たちだけではなく、教会についても当てはまる」というおまけがついて来る場合があります。「教会は、自分たちが『キリスト』を所有しているように考えるけれど、しかし『キリスト』は教会だけのものではないはず。もっと広いところで自由に使われてよいし、それが何か社会的に良い効果を生み出すのであれば、どんどん使うべきではないか」。こういう説明は、教会の存在を認めようとしない無教会の立場に立つ人たちとか、あるいはキリスト教の社会事業や社会福祉施設の場でこの御言葉が説き明かされる場合に、比較的よく耳にする説明です。

 さてしかし、考えたいのです。主イエスはここで、ヨハネが伝道しようとしたことを咎め、またもっと広い心で生きるようにと教えられたのでしょうか。病気の人が癒され、あるいは問題の中にある人たちが慰めと勇気と力を与えられるためであれば、イエスという名がどのように使われても構わないと教えられたのでしょうか。
 思い出しますと、元々主イエスはガリラヤ地方で非常に評判が良かったのですが、それは人々を癒したり悪霊を追い出したりして、大勢の人から頼られたからでした。それで、「主イエスによって悪霊を追い出していただきたい。癒しをしていただきたい。人生を良い方向へ導いていただきたい」と願って、どこでも主イエスの行かれる所には、大勢の群衆が現れるということが起こっていました。ところが9章に入ってからですが、主イエスはそういう群衆たちから距離を置こうとしておられます。先週聞いた30節には、「イエスはガリラヤを通って行かれたけれど、人々に気づかれないように注意をしていた」と言われていました。
 もし主イエスが、御自分の名がどのようにでも用いられ、一人でも癒される人が生まれるならそれが良いと、それだけをお考えだったなら、このように人々を遠ざけ弟子たちと密かに旅をしようなどとはなさらなかったでしょう。ですから、主イエスがヨハネに「やめさせてはならない」と言われたのは、ただ単に主イエスの名を使うことに寛容であれば良いということではなく、もう少し違う意味が込められていると思います。

 そこで改めて「やめさせてはならない」という主イエスの言葉に注目したいのですが、いったい何をやめさせてはならないのでしょうか。それは、「主イエスの名を使って業を行うこと」です。
 次にヨハネの行動についてもよく考えてみたいのですが、ヨハネは何をやろうとしたのでしょうか。最初は「主イエスの名を使って癒しを行っていた見知らぬ人」に、「主イエスの弟子であるわたしたちについて来るように。そして主イエスと一緒に生活するように」と言って招きました。ところがその人はついて来ようとしませんでした。すると今度はその人に向かって、「今後は主イエスの名を使ってはならない」と、主イエスの名を使うことをやめさせようとしました。よく考えるとヨハネの行動は二段階に渡っていることが分かります。最初は「主イエスと共に生きる生活の中に、あなたも一緒にいらっしゃい」と招きますが、それが上手くいかないように思えたので、次の段階に行って、「もう主イエスの名を使ってはならない」と、逆に突き放しにかかっています。ヨハネはそのように、二つの行動をしているのです。
 そして主イエスは、ヨハネのこの行動のうち、後の行いについてだけ、「それは良くない」とおっしゃっています。ヨハネは自分たちに従って来ようとしなかった見知らぬ人について、「この人は、主イエスの名を使っておきながら、主イエスに本心で従おうとしていないのだ」と考え、偽物の弟子であると判断しました。しかしそこがいかにも若者らしく、またボアネルゲスとあだ名されてしまうような短気なところなのです。
 この見知らぬ人が、この時すぐ主イエスに従わなかったのは、もしかしたら何かの理由があったからかもしれません。主イエスに逆らおうとしたのではなく、もしかするとヨハネの説明が舌足らずで、この人にとっては「ヨハネたちについて行くことは、主イエスに従うこと同じ」と理解できなかったのかもしれません。あるいはもしかすると、もう少し粘り強く根気よく、ヨハネが主イエスに従う生活がいかに心強いことか、どんなに嬉しいことかということを説明していたなら、この人はもしかすると喜んで主イエスに従うようになっていたかもしれないのです。
 ところがヨハネは途中で短気を起こして、この人について見切りをつけ、「もうあなたは主イエスと無関係なのだから、今後は主イエスの名を使ってはならない」と言ってしまった、そのことを主イエスは咎めておられるのです。

 主イエスは40節で、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われます。実はこの言葉の裏返しに当たるような言葉が、マタイによる福音書12章30節に「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と出てきます。ヨハネはこの見知らぬ人がヨハネの言うことを聞いても従って来なかったので、早々に「仲間ではない」と見切りをつけました。けれども、この人は別に敵対しているわけではないのです。ですから、「わたしたちに敵対しなければ、それは味方になる可能性がある相手なのだ」と主イエスは言われます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方」なのですから、そう考えますとヨハネは少し短気だったのであり、その点を咎められたのでした。

 主イエスは今日の最後の所で、弟子たちに、「短気を起こして、本当は味方になるはずの人たち、主イエスの招きに応じて共に生きるようになるはずの人たちを簡単に敵だと思わないように」と忠告しておられます。それが41節の言葉です。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。「はっきり言っておく」という言葉は、主イエスが「大事なことを弟子たちに教えるとき」に使われる特徴的な言葉です。主イエスは大事なこととして、「キリストの弟子だという理由であなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われました。高々一杯の水ですが、しかし弟子たちには、こう言われると非常に思い当たることがありました。弟子たちは、かつて主イエスが弟子たちを伝道の旅に遣わした時、一杯の水がどんなに大切かということを身をもって味わいました。弟子たちは袋の中に銭も持たず、服も持たず、何も持たずに、主イエスを伝えるようにと旅に出されました。それで弟子たちは、行った先で周りの人たちから施してもらわなければ生きていくことができませんでした。「そういう中で、あなたがたはたった一杯の水でも、本当に有難かったでしょう」と、主イエスは弟子たちにその時のことを思い出させているのです。
 見知らぬ土地に行って、弟子たちは出会う人出会う人に主イエスを宣べ伝え、「主イエスを信じ、主イエスの御言葉を聞いて一緒に生活しよう」と勧めました。しかしそういう言葉を聞いて、皆がすぐに主イエスに従って来たかと言えば、そうとは限りませんでした。
 けれども、主イエスにすぐに従うということにはならなくても、弟子たちに一杯の水を飲ませてくれる人たちはいました。ですから弟子たちは生き延びて来られたのです。「そういう人たちは、あなたがたの敵ではないのだ」と主イエスは言われました。

 ヨハネの言葉を聞いたからと言って、あるいは聖書の言葉を聞いたからと言って、すぐに洗礼を受けて弟子たちの仲間にならないとしても、「それでもこの町には、なお多くの主の民がいる」ということを、主イエスはこの日、ヨハネに教えてくださいました。
 そしてそれは、わたしたちも同じではないかと思うのです。日本ではクリスチャンは1パーセントに満たない少数派だとよく言われますが、しかし実際にわたしたちの周りには、この礼拝に来るわたしたちのことを支えてくれる大勢の人々がいるに違いないのです。わたしたちを教会まで送ってくれる家族や、あるいは日曜日のこの時間に教会に行っても良いと言ってくれる家族、あるいは友人、知人たちが大勢います。それらの方々は、すぐに教会に来ないからと言っても、別にキリストと関係ない人だと決めつけるわけにはいかないのです。そういう人たちをも、主イエスは招かれる可能性があるのです。「あなたはそのことを心に留めて、粘り強く祈りながら、『主イエスの御言葉を聞いて生きる生活に共に生きよう』と招いてよいのだよ」と、主イエスは教えてくださいます。

 わたしたちは、そういう主イエス・キリストの御言葉に励まされながら、福音を与えられ、わたしたち自身も慰められ勇気を与えられながら、この恵みをさらに多くの方々に伝える証し人とされたいと願います。祈りましょう。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ